滝藤賢一が妻と出会った無名塾について♪半沢直樹でかっこいいと話題に!!

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滝藤賢一さんといえば、「半沢直樹」「ドクターX」「コード・ブルー」など、様々なドラマや映画で活躍されている俳優さんです。

あのくりっとしたどんぐり眼が特徴的ですよね。

滝藤さんは「バイプレイヤーズ」にも出ておられましたね!

高視聴率のドラマに数多く出演し、『脇役界の主役』とも言われている滝藤賢一さんをご存知でしょうか?

仕事取りすぎ!と言われるほどです。

その滝藤賢一さんですが、無名塾の後輩と結婚しているそうです。

そんな滝藤賢一さんと無名塾との関係について!

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滝藤賢一の来歴

改めて、滝藤賢一さんのプロフィールについて!

  • 本名   滝藤賢一
  • 生年月日 1976年11月2日(41歳)
  • 出身地  愛知県名古屋市
  • 身長   177㎝
  • 血液型  O型
  • 職業   俳優
  • ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台

  • 活動期間 1998年~
  • 配偶者  既婚
  • 所属劇団 無名塾(1998年~2007年)
  • 事務所  エージェントオフィスタクト

愛知県の高等学校を卒業後、映画監督を志して上京。

放送大学教養学部卒業。映画『バレット・バレエ』のオーディションに合格したことを機に俳優を志す

その後、1998年から2007年まで俳優・仲代達矢主宰の俳優養成所「無名塾」に在籍し、舞台を中心に活動していた。

2008年、映画『クライマーズ・ハイ』に出演。

当時は全くの無名だったにもかかわらず、ワークショップで面識があった原田眞人監督からオーディションに呼ばれ、合格。

新聞記者・神沢周作役での演技が注目を浴びる。

同映画の撮影後、無名塾での10年間のキャリアに一区切りがつき、映像作品に活躍の場を広げるため、無名塾を退塾した。

2009年、NHK土曜ドラマ『外事警察』が連続ドラマでの初のレギュラー出演となる。

この撮影が始まりスケジュール的に厳しくなったため、それまで続けていたレンタルビデオ店、運送会社、居酒屋などでのアルバイトを辞めた。

それ以降、大河ドラマ『龍馬伝』の小松帯刀役や『踊る大捜査線』シリーズの中国人刑事役、連続テレビ小説『梅ちゃん先生』の食堂の亭主役など、脇役として多数のテレビドラマや映画に出演する。

2013年、TBS日曜劇場『半沢直樹』で主人公と同期の銀行員・近藤直弼役を演じ、その影響からオリコン調べによる「2013年 ブレイク俳優ランキング」で8位にランクインするなど、実力派のバイプレーヤーとして認知度を高める。

 

2014年4月期のテレビ東京系深夜ドラマ『俺のダンディズム』でテレビドラマ初主演。

CMも、2014年3月4日からオンエアされたロッテガム「Fit’s LINK」が初の単独CM出演となる。

映画監督として上京して放送大学き入学したにもかかわらず、役者のオーディションに合格したのですね。

役者の世界は難しいと聞きますが、才能があったのでしょうか。

確かに、よく観る役は癖が強い役が多いようにも思えます。

普通だと役に合わせて演技をするはずですが、その登場人物が滝藤さんに合わせているのではないかと感じさせられる程の演技力だと思います。

デビューから今に至るまでたくさんのアルバイトをし苦労したはずですが、こんなに数多くのオーディションを受け、役を勝ち取り、無名の役者から有名になるまでの勢いがすごいですね。

 

劇団『無名塾』

滝藤さんを役者の道けと導き、役者の才能を気づかせてくれた、そして、滝藤さんの役者としての原点と言っても過言ではない劇団『無名塾』とはどんな劇団なのでしょう。

無名塾の原点は、仲代達矢と宮崎恭子の自宅にあったプライベートの小さな稽古場です。

1975年、多忙な仲代が不在の稽古場に、夫妻を慕う役者の卵や演劇を志す若者たちが芝居談義に集うようになり、そんな彼らに宮崎が少しずつ稽古をつけ、仲代も時折顔を覗かせ、無名塾は自然発生的に始まりました。

素敵な次代の役者を育てたい」と、1977年、無名塾は一般公募を開始。

塾生の育成、さらに、宮崎が脚本・演出を手掛け、無名塾公演がスタートしました。

役者夫婦の自宅を稽古場にし、劇団が始まったのですね。

無名塾を立ち上げた役者夫婦は後程紹介します!

なんだかドラマの世界みたいです。

最初は稽古場として使われていたのも『素敵な次代の役者を育てたい』と思う仲代さん夫婦の考えから劇団へと変わっていったということでしょう。

滝藤さんもそうですが、強い思いがあれば人はどんどん大きくなるものなんですね。

二人で教える私塾のため、塾生はごく少人数に。マンツーマンで3年間の修業

礼儀作法から歩き方、発声など、役者としての基礎を叩き込み、共に舞台を作り上げます。

やがて無名塾は私塾という枠を超え、全国から公演を待たれる演劇集団に成長し、映画・テレビなどで活躍する俳優も数多く巣立っていきました。

こんなに若手のことを考えて、役者としての基礎や人として磨いてくれる劇団があるんですね。

マンツーマン指導ということから若者たちには魅力的で成長することもできたからこそ小さな劇団から大きな劇団へと変わることができたのでしょう。

今はマンツーマン指導はあまり聞かずの世界だと思います。

役者の世界は何万人といて、そのうちマネージャーは1人きり。

なかなか1人ずつ見てくれる劇団はないのでしょうか。

無名という言葉には、どんな役者でも「無名に戻ったつもりで」修業に帰ってこられる場所という意味も込められています。

設立の頃から、仲代と宮崎は「ここを出て自由に羽ばたいていった後、壁にぶつかった時に、原点に帰れる場所があるといい」と考え、無名塾は回帰修業の場でもあるとしています。

キャリアを積んだ者と若い者とが切磋琢磨できる場所。

舞台に立てば、塾長である仲代も新入塾生も同じ役者という姿勢がそこにはあります。

設立から40年を超えても、役者は「生涯修業」という無名塾の原点は揺るぎません。

無名という言葉にはそんな思いが込められていたのですね。

芸能の世界でも1番人気のある役者は才能がないと思ってすぐに辞める人も多いという話を聞いたことがあります。

実際私の身近にも役者を目指して養成所に通っていたが卒業後なかなかチャンスが訪れず、すぐに辞めた人がいます。

しかしこの劇団に出会っていれば壁にぶち当たった時も諦めずにいられたかもしれませんね。

今の時代、壁にぶち当たったりしたとき帰れる場所がある人は少ないのではないでしょうか。

 

無名塾を誕生させた仲代達也と宮崎恭子

お待たせいたしました。

無名塾を誕生させたのは一体どんな人なのか紹介します。

俳優の仲代達也さん。ダンディーな方ですね。

一見、怖そうにも感じられますが若い役者たちを育てあげている仲代さん。

きっと良い人柄なのでしょうね。

高校卒業後、定職に就けず、大井競馬場で鑑札を持たない違法な予想屋を取り締まる警備員をしたり、学歴不問ということでボクシングの三回戦ボーイの職にありつくなどしながら、映画館・芝居見物に通う。

そんな日々の中、俳優座公演を観劇した際、千田是也の演技に感銘を受け、1952年(昭和27年)、俳優座養成所に第4期生として入所。

いろいろな仕事に就き、苦労していたことでしょう。

もともと映画館に行ったりと、役者の世界に興味があったのでしょうか。

千田さんという俳優さんの演技に影響されて俳優を目指すきっかけとなったのでしょう。

養成所時代に『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役をつとめて映画デビュー

この頃仲代はバーで働きながら役者修行に励んだが、俳優座へ通うための電車賃を節約するために徒歩で移動し、毎日同じ服を着て、人とはあまり話さず、目だけが異様な光を帯びていたという。

養成所から仕出しで派遣された数秒間のエキストラ出演で、本来は出演作にカウントすべきものではないが、この出演で時代劇の歩き方ができなかった仲代は監督・黒澤明を苛立たせ、「俳優座では歩き方も教えないのか」と罵られ、ワンカットに朝の9時から午後3時までの半日がかりの撮影となってしまい、最終的に「いいや。OK」となった。

黒澤はこのことをすぐ忘れたらしいが、仲代にとって強烈な思い出となり、これが映画俳優・仲代のスタートとしてしばしば引き合いに出されることとなった。

結果大物になる俳優さんは初めからオーラが違うんですね。

エキストラとして出演した映画での苦い思い出は本人は1番残るものですよね。

それでもこのことがあったからこそ、若手を育てあげる理由の1つだったのかもしれませんね。

1955年(昭和30年)、養成所を卒業(前年既に初舞台)、俳優座に入団した。

同年秋の公演『幽霊』で抜擢された。

この『幽霊』を見た女優・月丘夢路の推薦で、月丘の夫である映画監督・井上梅次から依頼が舞い込み、映画『火の鳥』(1956年、日活)で月丘の相手役という大役をつとめ、映画でも本格デビューを果たす。翌年には映画『黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ・通称人斬りジョーの演技でも存在感を示す。

1957年(昭和32年)、俳優座所属の女優(まもなく演出家、脚本家に転身)・宮崎恭子と結婚

 

人との繫がりって大事ですね。

チャンスを掴み、映画デビューしたきっかけともなり俳優座に入団したことで結婚にも繫がりました。

そしてこの結婚相手の方が一緒に『無名塾』を誕生させた方ですね。

女優で演出家・脚本家の宮崎恭子さん

綺麗な方ですね。

写真でもオーラが伝わってきます。

女子学院卒業後、1950年に俳優座養成所に入る

卒業後は、同期の小沢昭一らと劇団新人会を結成。

女優として活躍する。

1957年に、俳優座養成所の後輩だった仲代達矢と舞台の共演をきっかけに結婚。

以後は、脚本家に転じ、舞台演出も手がけた

イプセン作の『ソルネス』の演出で1980年度芸術祭優秀賞受賞。

1995年夏の無名塾の全国公演中に体調不良を訴え、膵臓がんと判明。

1996年6月27日に死去した。

65歳没。

仲代さんは後輩だったんですね。同じ事務所での結婚。

社内恋愛みたいなものでしょうか。

若くして癌のため亡くられたようですが女優として活躍し、後に演出・脚本家としても活躍し長い芸能生活だったのではないでしょうか。

そして夫婦で立派な劇団を立ち上げ、素晴らしいご夫婦だと思いました。

滝藤さんにとっても恩師と言っても過言ではないのでしょうか。

お二人が育てあげた『無名塾』出身の俳優さんは他にもまだまだたくさんいるようです。